『表現の不自由展』騒動がみせた日本の不自由と無頓着

10/11(金) 18:22配信

ニューズウィーク日本版

<検証委員が語った憲法への理解不足や美術教育の危機、そして天皇作品の日本的センチメント>

テロ予告や脅迫を含む大量の抗議に遭い、展示を中止していた「あいちトリエンナーレ」の企画展『表現の不自由展・その後』が10月8日に再開された。不自由展をめぐっては、政治家たちの「検閲」とも取れる発言が相次ぎ、いったんは助成を決めた文化庁補助金の全額不交付を発表するなど異常ともいえる事態が発生。表現の自由やタブーをめぐり、今も議論が続いている。

愛知県が設置した「あいちトリエンナーレのあり方検証委員会」の中間報告(9月25日発表)では、展示が中止となるまでの経緯や混乱の原因、トリエンナーレ開催に関する改善策などがまとめられた。一連の騒動が浮き彫りにした今後の課題などについて、美術館運営・管理の研究者で、検証委員会委員を務めた岩渕潤子・青山学院大学客員教授に話を聞いた。

◇ ◇ ◇

――検証委員会では、かなり短期間でさまざまな問題を検討したと思う。

8月16日に第1回目の検証委員会が開かれ、9月25日に中間報告を出したというのは、自治体の第三者検証委員会としてはすごいスピード。普通は事務方が出してきたものを委員らが目を通し、ちょっと手直しするようなパターンが多いと思うが、今回は委員自身が原稿も書いたりした。みんな忙しい中で、朝5時くらいから9時くらいまでメールのやり取りがあって、夜は10時くらいから午前1、2時まで、オンライン・キャンプみたいにずっとやり取りをして資料を作りました。

問題になり始めた当初、何か大変なことが起きていると思いつつ、十分な情報がなかったので、続報を待つという感じだった。それが、大村知事が検証委員会を立ち上げると記者発表した日(8月9日)の午前中に、知事本人から電話があったわけです。今日夕方に記者発表をする前に、検証委員に就任して頂くというご本人の同意を得なくては、と。

知事は、教条的といってもいいくらい憲法を遵守しようという姿勢がある。政治家として表現の自由について、とても強い意志を持っておられ、電話では15分くらい、そのことを熱く語られました。とても真面目に取り組もうとしておられるのが印象的でした。

名古屋市河村たかし市長が、展示内容について「日本人の心を踏みにじる」と言っているのは、どういう立場での発言なのか。私人としての感想であれば、当然何を言ってもかまわない。でも、その後の言動を見ていると、市長という立場をどう考えているのか疑問です。典型的なポピュリストだと思いますが、一部有権者の心の琴線に触れるというか、時代の空気みたいなものに迎合するというか......彼はそれで人気があるわけですよね。市長の言動を支持している人がいて、似たような感想を抱いている人が一定数いるのは確かだと思います。

大村さんは対照的に、気分で何かを言うということがなくて、サポートチームや私たちの話もよく聞いてくれて、その上で正しいと思うことを話している。その辺りが、温情がないと見られてしまう原因かなとは思うのですが、2人の対照的なところが興味深い。ある意味で、今の日本社会の分断を表しているようにも思う。

――抗議の電話やメールの対象となったのは、主に慰安婦を象徴する『平和の少女像』(キム・ソギョン、キム・ウンソン)と天皇の肖像を含む動画『遠近を抱えて partII』(大浦信行)だったが、批判は半々くらいだったのか? 報道では『少女像』の写真が繰り返し使われたので、そちらの印象が強いが。

実際の抗議の数は、天皇の作品に対するものの方が多かったはず。抗議している人の興奮の度合いも、強かったのではないか。『少女像』については、これまでも慰安婦そのものの問題の中で繰り返しイメージが出ているし、それが何を意味しているかという文脈が分からなければ、見た目としてはショッキングなものではない。だから、(報道などで)よく使われたということはあったと思う。

『遠近を抱えて partII』のような長い尺の映像作品は、放映するには作者の許諾を取らなくてはならず、権利処理が難しい。まして数十秒の放映では作品の文脈が伝わらず、それを承知の上で報道に使うことはしないでしょう。

『平和の少女像』については、外務省が2017年に「慰安婦像」に呼称を統一することをわざわざ決めている。政府の見解として、これを慰安婦像と呼ぶ、と。少女像の見た目から「慰安婦が未成年ばかりだったかのような誤解を招く」という自民党内の意見を踏まえてのことだそうです。

著作者の持つ権利の中に「同一性保持権」というものがあり、作品は作者が作ったそのままに見せなくてはならない。厳密に言えば、タイトルまで同一性保持権に含まれるので、作者の意に反して変更されない権利がある。だから、『平和の少女像』を作者の許諾なしに「慰安婦像」と呼び方を変えるというのは、かなりおかしなこと。一部の歴史認識を代表する、恣意的な解釈のように感じます。ただ、(政府が「慰安婦像」と決めた)その後でも、主要メディアは『少女像』とか『平和の少女像』という呼び方を続けているので、それはマスコミの矜持というか、政府の言っていることが全て正しいわけではないという認識なのだろうな、と思う。

『表現の不自由展・その後』の作品は政治色が強いものが多いとか、プロパガンダだとか言われたが、むしろ一部の人が、あの作品が展示されたことを逆にプロパガンダとして利用したと見えなくもない。それぐらい極端な反応が出た。15年に民間のギャラリーで展示されたときはああした抗議は起きなかったし、「ひろしまトリエンナーレ2020」のプレイベントである企画展『百代の過客』が10月5日から始まっていて、そこには大浦作品なども出ているが、今のところ表だった抗議は起きていない。その違いは何なのか、不思議だ。

補助金不交付は悪しき前例>

――議論の分かれるアート作品に対する抗議が起きる例は、世界にもある。そこから何を学ぶのかが重要だと思うが......。

私は今回、多くの日本人が憲法をちゃんと理解していないのではないかと改めて危機感を感じた。法律が専門の人でもない限り、ほとんどの人は、表現の自由や検閲がどういうものであるかを学校で学んだ経験もなければ、考えたこともなかったのではないか。

だから、小学校から高校で民主主義とは何かを正面から学ぶ機会が必要だと、つくづく思った。その教育を行うのに、アートはちょうどいいプラットフォームになるかもしれない。いわゆるネトウヨみたいな人たちは『遠近を抱えて partII』を見て、あれが「作品」だということを理解しようとしないわけです。つまり「天皇の写真を燃やしている!」と受け止めてしまって、創作だと理解することを拒否する。例えば、映画『日本のいちばん長い日』に天皇が登場して、演じた俳優がけしからん、とはならないでしょう? それと同じだということが分からない。それほど想像力が欠落してしまっている人が多数現れたことが、私にはショックだった。

これは日本の美術教育の危機であるともいえる。その点について、さまざまな人が議論を始めたことはいい傾向だと思う。

それと、日本は検閲が行われるような国ではないと、みんな漠然と思っている。でも、(10月5日に行われた国際フォーラム「『情の時代』における表現の自由と芸術」で)ジャーナリストのデービッド(・マクニール)がこんな話をしていた――12年のロンドン・オリンピック前、あるラジオ番組で「なんでも話してください」と言われ、オリンピックの話題の最後に、「五輪中は警備のためにロンドン市内のアパート屋上に地対空ミサイルを設置し、市民が『攻撃のターゲットになる』と抗議した。沖縄もそうですよね、米軍基地があれば敵対国からターゲットにされ、市民が巻き込まれる可能性がある」と話した。そうしたら、ディレクターが脂汗をかいて「沖縄はノータッチなんです!」と大慌てした。ちょうど皇室の世継ぎ問題(女性宮家の議論)などもあり、その頃から日本の報道の自由ランクは下がっていった。

日本人には、表現の自由を抑制されている自覚がない。本当はそうしたことはさまざまな所で起きていて、特に12年くらいを境に、1つは東日本大震災、もう1つは皇室の世継ぎ問題があって、取材できないことがどんどん増えていったのではないか。東京駐在の海外特派員でそういうことを感じている人は多い。問題を避けようとして自主規制したり、自己検閲したりということは、気を付けないと今も今後もあるはず。

――今回、物議をかもす展示に公的資金が入っていることに対する批判が出た。

アメリカでは、NEA(全米芸術基金=さまざまな芸術活動に助成金を提供している連邦政府の独立エージェンシー)が1965年にできたとき、アーティストが反対した。反対のデモまでやっているわけですよ。日本人の感覚では理解しづらいかもしれないが、アーティストたちは、国が助成するということは表現の自由に介入されるきっかけを作りかねないと考えた。やはり表現は民間でやるべきだと。実際にアメリカの美術・博物館や図書館、大学もほとんどが私立で、それができる社会的な仕組みも、人々の精神、財力もある。

日本の場合は国や自治体のほうが偉いと思われていて、公立が「お墨付きを与える」という意識が一般的。今回の不自由展でも、民間のギャラリーでできた展示を公立の美術館でやり遂げたいという思いが(展示する側に)あったわけで、その発想に私は驚いた。

ただ検証委員会でも指摘したように、トリエンナーレ実行委員会の会長が知事であるのは無理のある体制だろう。予算を執行する側の会長が、予算を付ける側の知事であるのはガバナンスとしてあり得ない。財団などを新たに作って、知事ではない人がそのトップに就くのが理想ではないか。そういう方向に持っていかないと、最終的に表現の自由や自立性の担保も難しい。

ただし、文化庁補助金不交付は別問題で、それがこのまま確定するようなことがあれば、悪しき前例になってしまうので、全力で阻止しなければならない。文化庁がいうなれば無視されて、文部科学大臣が頭越しに決めた、ということですし。

文化庁長官の)宮田さんは、事案が生じたときには海外にいたようだ。不交付の決済には実際に関わっていなくて、事後通達だと思う。補助金採択の際に関わった審査委員に対しても、文科大臣が不交付を発表した翌日くらいに、ようやくお詫びのメールが来たようです。よく考えなくても、いろいろと異常事態だった。

<抗議は組織的なもの?>

――抗議は組織的なものもあったようだ。

検証は進められているようだが、最終的な結果はまだ出ていないと思う。電凸攻撃については、警察からさまざまなアドバイスをしてもらっている。集まったメールなどから判断する限り、同じような文面があり、雛型といえるものがあったようだ。同じ人が何度もやっているケースもあるかもしれない。

私個人としては、左だ右だという決めつけに興味はないが、ツイッターなどでは、「パヨク大村」「検証委員会もパヨク」みたいなことを言われている。だから、検証委員会でヒアリングをする対象として、世間から見て絶対に左ではない人を何人か入れたいと個人的には提案した。というのも大浦さんの作品は、右翼が見たら泣くのではないか?と思うような、日本的センチメントにあふれたものなので。大浦さんと、例えば一水会元最高顧問の鈴木邦男さんのような人とが対談したら、絶対盛り上がると思う。

――いろいろな意味で、次の議論につながる視点が出てきた。あとは補助金がどうなるかだが......。

訴訟になると思うので、それにどういう答えが出るか。普通に考えれば、憲法の保障する表現の自由の問題で、国が負けますよね。それを負けさせなかったら、日本はもう法治国家ではない。それと、ひろしまトリエンナーレ(20年開催)にも文化庁助成金が出ると採択されているので、それがどうなるのかにも注目している。

大橋希(本誌記者)